始まり

当宮の開祖となります、比嘉(ハツ)が第二次世界大戦後、家族と共に八島(現:沖縄市八重島)に移り住んだある晩に、体験した事がきっかけで御神事が始まりました。

比嘉(ハツ)は、真夜中に突然家族全員をたたき起こし庭先に出るように言いました。

家族が庭先に出ると東の空にお月様のような大きな光の輪があり、その光の輪から一人一人の胸に、赤い光が照らされました。そこに、主祭神である大国ミロク大社(現:大国ミロク殿)の天地陰陽結大神様が現われ、付き従って艮金神様と大国ミロク大神様が天降り、比嘉(ハツ)を生き神として使うため十種神宝を授けられました。

その後、この出来事をうけ、比嘉(ハツ)は、天地陰陽結大神様に使われ、混乱の世の立て直しとなる神事をおこなう為、各地各場所の神々を訪れ、神開き、神結び(カミムスビ)、高御産巣日神(タカミムスビ)、天地結び、陰陽結び、神調和、神和合の神事をおこなう事になり、繋ぎ結びとなる大国ミロク大社(現:大国ミロク殿)を建立し、当宮の開祖となりました。

聖地神開き

1952年(昭和27年)5月28日に比嘉(ハツ)は、「この世をすくう宝がある」という神託を受け取りました。

この時、比嘉(ハツ)夫婦は、神託の指示があり断食をおこない、身を清め、啓示で指示された場所を東西南北囲み結界を張り、その内側を三尺三寸堀り進めました。その時、掘り出されたものが天地陰陽結大神様(現:宇宙創成陰陽三祭神様)の御神体である陰陽石、そして、心臓石と教えられた鍾乳石(現:宇宙創成核大神様)の御神体でした。

1952年(昭和27年)頃から1955年(昭和30年)頃まで、比嘉(ハツ)は神託に従い、一人で沖縄本島内や離島を神事に回っておりましたが、ある日、一緒に神事をおこなう陰陽の働きをする者がおり、その者達を探すように神託を受け取りました。

当宮の御祭神は、当初、三神一体でありました為、開祖・比嘉(ハツ)は、一人で三神一体の役割を担い神業を努めていましたが、神業が進むにつれ、それぞれの役割が大きくなり一人では背負いきれない状況となってきていた事から、大地・陰の母神の役割を比嘉(ハツ)、陽の父神の役割の男性、結びの神の役割の女性、そして比嘉(ハツ)の夫が艮金神様の働きをするということを伝えられ、中心的な御神事は父神、母神、結び神がおこなう事とするように伝えられてきました。

最初に、結び神の役割を担う女性と出会い、続いて、父神の役割を担う男性に出会い、共に神業をおこなう事になりました。この母神、父神、結び神を陰陽三様(いんようみさま)と呼び、新たな神業・神事の仕組みが出来ました。また、その頃から様々な役目役割を持った人々も集まってきました。

役目役割は、その人それぞれの生まれ年によって異なっており、彼らは十二支の神子(じゅうにしのみこ)と呼ばれ、それぞれの役割を果たすべく、陰陽三様と共に毎日、昼夜問わず沖縄の各地の御嶽、洞窟、岬等、聖地と呼ばれる場所や戦後の混乱から埋もれてしまった聖地、洞窟を啓示に導かれ訪れ、平和の世となる為に神々に御働きいただけるよう神業をおこなっておりました。

1957年(昭和32年)

比嘉(ハツ)は、

「第二の岩戸開きを致せよ。
この世は九分九厘が悪神の働き。
誠の一厘で世を救う。
今の世は善と悪との最後の戦い。
立替え立て直しを致して、ミロクの世を創るぞよ」 

という神託を受け、指示された宮からほど近い鍾乳洞に毎日通い祈り続けました。通い続けて丁度、171日目の11月15日に、神様から本来の洞窟の入り口を教えていただく事ができ、神開きをおこなう事が出来ました。

それは、開祖・比嘉(ハツ)が真剣に神業に向き合う意識であるのかと問われる、試される期間であったと言います。

この神開きの際、艮光明大神様がまず表に現れ「九分九厘が悪神の働き、真の一厘で世を救う」という言葉を発せられ、続いて全ての龍神様を司る龍王様が現れました。この鍾乳洞の奥深くには母神様を表す御神体がある事から、龍神、龍王様は、この鍾乳洞の地の底、大地の母神様を守護する働き、地球そのものを守護する働きの遣い神としても動き始めました。 この洞窟が天岩戸になります。

聖地を周る

記録によりますと、開祖・比嘉(ハツ)達は、亡くなるまでの51年間で沖縄本島、宮古、八重山を始めとする各離島で三千余りの岩戸開き・神開きの御神事を行いました。

「世界の雛型は日本。日本の雛形は琉球」という啓示の元、戦後の混乱期から隅々まで神開き、神結びを行ない、各地の神々様に本来の御働きをしていただき、混乱期から平和の世になるよう神業・祈りに努めてきました。

戦後まもなくであったこともあり、御神事の中心となる洞窟には、多くの遺骨がそのままの状態でした。

開祖を始めとする神子達は、まず、遺骨を集め、供養の祈りをおこない、その後に、洞窟内へ入り神開きの業をおこなっていました。


本州での神業

1961年(昭和36年)7月、宮中にて、比嘉(ハツ)と父神、結び神の役割を持つ陰陽三様は、沖縄と本州を結ぶ神事をおこないました。 

そのきっかけは、1960年(昭和35年)「大地の母の役割を持つ者がいる。その者と共に神業をするように」という神託を伝えられた方がおり、その方は使者を使い「大地の母の役割の人物」を探しました。使者は、北海道から九州まで様々な人を訪ね、捜し歩いたと言います。しかし、探している人物に当てはまる人はどうしてもみつかりませんでした。当時、第二次世界大戦後、沖縄はアメリカの統治下の琉球政府であったこともあり、沖縄に入るのにはパスポートが必要でしたので、除外していましたが、九州から北海道まで探しても見つからなかったことから、琉球を訪れる事になりました。使者は、沖縄に入り、人づてに比嘉(ハツ)を知り、会う事になりました。使者が比嘉(ハツ)の自宅を訪れると、玄関先で開口一番、比嘉(ハツ)が発した言葉により、探していた人物がこの人、比嘉(ハツ)であるとわかり、神託の事を告げ、宮中へと招く事になったと言います。

陰陽三様と同行した数人の神子は、琉球から本州へ渡りました。宮中三殿には、陰陽三様のみが入る事が許され、他の人達は別な場所で待っていたそうです。この時、招かれ入って行った中で比嘉(ハツ)には、お題が出されたそうです。一から十までの数の意味を答える事。ひふみ言葉の意味を答える事だったと言います。比嘉(ハツ)はこの問いに対して、一つひとつ答え、またその答えが合致していたことにより、探していた大地の母神の使いであると認められ十六菊花紋の金の指輪と二つの額装を賜りました。

宮中内にて

  • 向かって左:結神の役割の女性
  • 向かって左から2番目奥:白いシャツの男性が父神の役割の男性
  • 向かって右:着物姿が母神の役割の比嘉初
  • 中央に座している方
    賀陽宮恒憲王



この時、賀陽宮恒憲王から賜りました「神人一女」「ひふみ祝詞」の揮毫(きごう)が下記になります。

「神人一女」/ 比嘉初宛

(向かって右から、「しんじんいちじょ(神人一女)」読みます)

「ひふみ祝詞」/ 比嘉初宛

(向かって右から読みます)

「君が代」/ 結び神の役割の方宛

(向かって右から読みます)

宮中での神業を終えた後、比嘉一行は、縁を繋いでくださった(たちばな)香道(こうどう)という方の宅に滞在し、和歌山県の玉置神社や富士山、富士の麓の洞窟、静岡の神社等を巡り、神開きの神業をおこない、沖縄に戻ったそうです。

これが、開祖達の初めての沖縄と本州を結ぶ御神事になりました。


神業

昭和30年代の頃、様々な方々が宮を訪れ、当時通っていた神子の話によると100名以上の神子や関係者がいたと伝えられています。当時、会員向けに会報誌が発行され、おこなっていた神業についての記載がありました。

比嘉宅にて 神子とのやり取り 白い服を着ている方々は当時の神子の方々なります
宮古島 大神島への移動
宮古島の大神島へ移動(裏面に記載あり)
サバニと呼ばれる船に乗り島へと向かっています
お供え物を持って森の中の聖地を移動する神子
※ 備考

※比嘉初夫妻は、本土就職により当時広島に在住していました。原爆投下時爆心地から3.1㎞の所にいたと言います。凄惨な状況下の中を生き、沖縄に戻ってきました。

沖縄に戻ると家族は国頭村(くにがみそん)辺土名(へんとな)に引き上げ、その後、初が生まれ育った場所という事から久志村瀬嵩(くしそんせたけ:現名護市)という場所に居を構え、製材所、精米所、芝居小屋等の配給所を営んでいました。

段々と落ち着いてゆく世情の中、人の流れは那覇や沖縄市へと移動してゆき、比嘉家族も三原から出て新天地へと進むことを決めます。当初は、那覇へ移動する予定でありましたが、折しも、ベトナム戦争が勃発。米兵の繁華街がにぎわい始めた沖縄市コザにて新たな事業をおこなう事を決め、現在の沖縄市八重島(旧:コザ)へと移り住みました。

比嘉初が、夜中家族を起こし家の外へ出るよう促したのは、八重島に移り住み間もなくの頃だったと言います。当時、小学生だった長女はそのことを覚えており、今でも不思議な出来事であったと言います。


※ 大地の母の役割の人物を探すと言われ、日本中を探した使者の方が持って歩いていたのは、供養されていない遺骨だったそうです。箱に入れられ風呂敷に包まれ、一見しては遺骨とは分からない状態で持ち歩き、それを言い当てる人物を使者は探していました。開祖:比嘉ハツは、使者が来る前に自宅玄関に仁王立ちになり、使者が玄関を開けたと同時に「そのような物を持って歩いてなんて罰当たりなのだ」と開口一番一喝しました。その一言で、使者は、探していたのがこの人物だと確信し、探していた事の経緯を話したと言われています。

※橘香道氏・・・
古事記、神道、般若心経等を研究し、その行動力から幅広い縁を持っていた人物。この方の縁により、宮中へ赴く事ができ、沖縄と本州とを結ぶ事が出来ました。

※宮中からの書・・・
比嘉初と結び神の役割の方への書は、現存しておりましたが、父神の働きの方へ送られた書は、紛失されてしまっており、どのような言葉を賜ったのかは不明です。