その年の一年の厄払いを執り行う行事となります。

神様との出会い

当宮の開祖となる比嘉初(比嘉初子とも言っている)は、集団就職にて、本州へ就職し、そこで夫:比嘉良弘と出会い結婚しました。

1945年、第二次世界大戦中、比嘉は、広島市内で鉄工所を営んでいました。当時、上空を飛ぶ米軍機から撒かれたチラシで「新型爆弾を落とす」ということが知らされており、市内にある軍事工場を火災から守り、近隣へ火災が広がらないように家屋の解体業の請負業を営んでいました。この解体作業は国からの指示という事もあり、請負会社には作業員用に米の配給がされていました。

比嘉初が、作業員達のお昼の支度をしていると、台所の勝手口に「何か食べ物をください」とぼろぼろの着物を着た人が声をかけてきました。初は、作っていたおにぎりを2つ渡し、また、お昼の支度にとりかかりました。しかし、その人が、なかなか立ち去る雰囲気が無いため、振り返るとそこには大国様の姿をした存在が立っていました。

その大国様は、ご飯の御礼にと、比嘉初にぼたもち黍団子(きびだんご)を1つ、一緒に台所にいた初の長女(当時4才)に同じく黍団子(きびだんご)を2つ渡して、立ち去ってゆきました。

節分祭は、この時の出会いを記念した祭となります。


当宮の御神体である陰陽石がこの世にあらわれた日を祝しての祭りとなります。

教えられた「この世を救う宝」

1952年5月28日に比嘉初が、啓示により「この世をすくう宝がある」と教えられ、啓示で指示された場所掘り越すことになりました。初と夫良弘は、数日前から断食をし、教えられた場所を東西南北の四方を囲み、結界をはり準備をしました。言われた場所を三尺三寸堀り進め、掘り出されたものが御神体でもある陰陽石と心臓石と言われる鍾乳石が現れました。

陰陽石は、その名の通り、対極、陰陽を結ぶ御神体であり、当宮の主祭神、宇宙創成陰陽母大神様、宇宙創成陰陽父大神様、宇宙創成結大神様の三神一体(陰陽三様)を表しています。同時に表に出ました心臓石は、生命、命の鼓動、命を表しており、陰陽三様が創造された存在に命を吹き込む当宮の宇宙創成核大神様の御神体となります。

陰陽祭りは、御神体がこの世にあらわれた事を祝しての祭事となります。


当宮の聖地・天岩戸が神開きされた日

半年間に渡る通い

陰陽石を表に出した後、「第二の天の岩戸開き致せよ」という神様の御言葉を伝えられ、比嘉初は同1957年(昭和32年)5月28日から山の一角にある鍾乳洞に毎日通いました。

来る日も来る日も、鍾乳洞へと通い、神々様へ現世に現れ、平和の世を作る御働きをしていただけるようにと、祈り続けてきましたが、その願いが届いていない知らせが日々伝えられてきました。通い続けて171日、初は、鍾乳洞にて神々様に問いました。「毎日ここにきて、祈りを捧げてきました。しかし、祈りが通っていないと教えられ続けています。何故でしょうか」この問いに神様は「ここは、大地の母がいる大切な場所。本気で神の道に進むのかを試していた。」と告げられ、鍾乳洞の入り口を教えていただくことができ、神開きを行う事が出来ました。
そこは、全ての生きとし生ける存在を生み出す大地の母のおわす場所でした。神開きをした際に、母神様を守護している艮光明大神様がまず表に現れ「九分九厘が悪神の働き、真の一厘で世を救う」と教えられました。次に、同じく母神様の守護であり艮大神様の使い神である、全ての龍神様を司る龍王様が現れました。

艮祭は、天岩戸の神開きを祝した祭事となります。

(※この後、啓示で伝えられておりました大地の母神の御神体を探しに、初達は時折洞窟内を探索しておりましたが、中々見つける事が出来ませんでした。2008年12月25日(平成8年旧暦11月15日)開山祭(現:母神誕生祭)の為に、洞窟内に明かりをともしてくるように、比嘉初から言われた比嘉良丸が、洞窟内で明かりをともしていると神から呼び止められ案内された先に、大地の母神様の御神体を見つけました。(この時、御神体が表に現れた事により、次なる神業、神の仕組みが動き出しました。)